「野学校」ことはじめ


「野学校」ことはじめ

 

 野学校は、「やがっこう」、ヤグワッカウである。

 歴(れっき)とはしていないけれども学校である。

 文科省とは無関係だが学校である。文科省と無関係なことが自慢でもある学校である。

 なぜ学校かと言えば、校章があるからである。校章のバッヂがあるからである。校歌があるからである。校長がいるからである。小使いさんがいるからである。始業の鐘だってある。授業だってあるし、授業料だってある。

 これだけ条件が具備されていれば立派な学校である。と理事(スタッフ)全員は思っているから学校である。

 この野学校のキャッチフレーズは「バイキンからクジラまで、みんなで学ぼう野学校」だ。

 種の多様性と国際的に唱えながら、どうしてバイキンは殺してもいいのか、誰かに聞きたいなぁ。

 そう言う聞きたがり屋のおじさんおばさんたちが集まって学校となったわけである。

 幸いなことに私たちの仲間にはそれらに応えてくれる知識と経験と豊かな人間性を兼ね備えた人たちがいるのだからありがたい。

 野学校の教授(レベルが高いので全ての仕組みは小学校のイメージだが講師は教授と称す)は、誰にお願いするかという選定が一番心を配るところで、先ず第一の評価基準となるのが「変さ」である。

 変であれば変であるほどいい。ご本人が変な人、変な物を研究または調査をしている、時々変なことを口走る等々変さ度の高い人がいい。

 もう一つ別の尺度があってそれは、今聞いておかないと絶対後悔するという話をお持ちの大先輩。私たちは今までどれだけ後悔したことか、そのような後悔を繰り返さないためにも「日残りて暮るるに未だ遠し」な方より「残日」の少なき方のほうが優先されるのはいうまでもない。

 そしてこういう方々は充分変な人である。

 つまり、教授の選択基準は「変さ値」の高い人ということになる。やがてこの「変さ値」を数値化してその数値で教授選択をしようかとも考えているのだがまだ理事(スタッフ)の合議によって決められている。

 そう、ツバメの調査をしている人より、ツバメの足の裏にいるダニの排泄物だけを研究している人の方が「変さ値」は高いよな、とみんなで話し合って決めるのである。

 かくして教授が決定されることになるのだが、それは野学校側の決定で、ご本人がどう思われるかはわからない。というのもこの野学校は満足頂けるような謝礼を用意出来ないからである。野学校の教授への謝礼は、寄席の「割」方式である。

 つまり当日の授業料一人千円に、出席の方の数を乗じた金額から会場使用料を引いて、それを野学校と教授とで折半する、ということになっているのだからなかなかお願いしずらいものでもある。ちなみにスタッフ(理事)は全員ボランチアで全てに手弁当で当たっている。野学校からは、茶1杯出ない。

 野学校は、自前の校舎がないので毎回授業の打ち合わせに、協力してくれている「日本野鳥の会」の会議室を使わせて貰っているのだが、そもそも、野学校発足は、元野鳥の会職員、柚木修さんを偲ぶ会を企画し、一年に亘り打ち合わせをしている内に飛び出してくるみんなの話があまりにも面白い。「こんな面白れぇ話を俺たちだけで聞くのはもったいないなぁ」と言うことではじまったイベントで、みんな面白がれることが嬉しくてやってる学校なのである。

 だから本当は、も少し授業回数があるといいなとも思うのだけれど、ボランチア理事の負担が重すぎると長続きしない。ま、年四五回だろうって決まった授業回数であり、気楽に楽しく、面白く、いつまでもやっていきたいなぁ。そういう理事達の思いでスタートした野学校は、今や真っ盛りなのである。

岩本久則


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